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大人になるって、ずっと遠いものだと思った。
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2011年08月22日 (月) | 編集 |
僕は、嘘つきだとよく他人に言われた。それもよくよく云われ今でも本当だろうかと夜な夜な顧みるときがあった。全く見当もつかない。
そもそも、誤解を生じさせるような曖昧な表現は好まない僕が、意味もなく見当違いな嘘をつくだろうか……。
 けれども、さらに僕は論理を進め、冷静にアナリシスする。脳内の複雑な回路の中から解へ導くだろう事象を思い出そう。
 さて、僕は本当に嘘つきなのだろうか――。
 初めて嘘つきだと言ったのは誰だったか覚えがないが「壁だって通ることができる」と教室中に反響させた頃だから、小学生時だったか……。
しかし、我ながら稚拙なことを云ったものだ。きっと僕は「通り抜けることができる」といいたかったのだろうな――。だが、それだとしても本当のことだ。その言葉に他意はない。
人間は、結局、原子からできているのだから不可能ではないだろう。網戸の目が細かろうと、粗かろうと通り抜けるだけの隙間がある以上、完全否定はできない筈だ。  
けれどだからといって、僕の論理が完全に正しいともいっていない。原子というものが我々人間の想像論理の絶対的なものであれば話は別だが……。
結果として壁を通り抜けられるはずだ。
 だがもし、嘘つきなのだとしたら、僕の存在は僕が認識し得(う)る範囲内にないのかもしれない。それはそれで少し興味がある。つまらなかった日常に一つの鉱脈が見つかった気がしたのはこの時なのかもしれない――。
話しはかわるが、僕は数学というのが好きだ。時に心をひき、時に滑稽で愉快である。それは人間そのものではないか―。僕は決して人間嫌いのわけではなく寧ろ
好いていると思う。人を信用するというギャンブル的要素が確率的には刹那なものであるのか、もしくは不可思議なものであるというのか――。それは露骨に面白い。
人間には性格というファクタが添付されてこの信頼やらを変化させる。つまり、性格というものを人に添付すると、信頼やらは時間ごとに変化するということに他ならない。よくよく云えば、人は常に変化することを義務付けられていると思う。
それは数学的に云えば、y軸にだって性質があり、違いもある。他人に自分の心を理解して欲しい、仲良くしたいという人間らしい感情も数学にはあるんだと僕は思う。
 それにしても、数学だと聞いた途端に拒否反応がでる人を多々見掛けるが、なぜなのだろうと僕は考える。

「…」

「***」

「???」

「……」

「!」
 ふと気付けば夕顔も萎んでいた頃合、今日は虫の息さえも聞こえそうにない。しかし、心臓は激しく高鳴る。膨らみ続ける僕の夢想は、今、開く
「嗚呼、そうか、いや、そうなのか」
 
「安易だからこそ複雑なのか―。」

数学とは結局「1+1=無限」を考えるもの、という根本が嫌なほど厳密だから理解しがたいのではないだろうか……。
「1+1=2」は確かに正しい。
しかし、本当に解はそれだけだといえるか、
「1」にも与式にも条件がない。つまり、どの数学を用いても良いことになる。
 もちろん算数では、答えは
「2」であるが数学まで拡張すれば答えは
「0」でもある
「1」でもある。はたまた、
「10」もしくは

「無限」

その場、その状況において自らが判断を下さなければならないのが数学の難しさなのだろう。

 例えばそれが微分であればその点の傾きが解るからなんなのか、分数を分数で割るとどうして割る方が分母、分子が反対になるのか。
 前者であればその点の傾きが分かればある方程式が導きだせる。
 後者であれば、割るという作業を解答者は無意識的に難しくしてしまっている場合が多い。
 丸いケーキを考えてみる。ただし、このケーキは生クリームも飾りもない半月型とする。
 これがこのケーキの条件になり、数学的条件と言える。
 そして、
「五人に均等にケーキを配るとすると一人分のケーキは丸いケーキの何分の一になるのか」という問いを付け足してみる。

 答えは、
「10分の1」だが、ここには疑問は少ないと思われる。
 しかし、この問いを五人でなく
「2分の1」とすると至極複雑になる。

 答えは、
「1」だが、日本語として
「2分の1人」はおかしい。
だが、ここで視点を変えるとこうなる。
「二人の内一人にケーキを配るとすると一人分のケーキは」とすると一人に配るのと同義である。

 つまり数学の難しさとは、
「考えることにあるのではないか」という仮説を立てることができる訳である。

 考えることが好ましいと思うものには、安易であり、そうでないものには複雑という訳である。
では、数学が通用しないとしたら、面白いと思わないか?
そう思ってしまう僕は、すでに普通ではないのか……?















僕は普通の男子高校生で、普通に生活をし、普通に死ぬだろうと思っている。
それはそれでいいと思っていたし、誰に迷惑をかける訳でもない。

 しかし、この通り振る舞い、つまらない前途になることを毛嫌いする時も間々ある。
 だからか、面白そうなことについつい反応してしまうし、深層では待ち望んでいる。
いや、これは語弊だな、僕は待っている訳じゃない。努力しても面白いことに巡り逢えないこの宿命に嫌気が差している。
「起きねぇよな面白いことって」
と誰に聞かせるでもない自問自答を日毎呈し続ける心はなんと愚かな。

 それにしても、片鱗ぐらい示してもいいと思わないかの為だけではないが数学とか物理だって日々研鑽を積んでいるのに……。








    この世は苦悶の世界だ。









申し訳ない。まだまだ続くし全然続かないかも知れないドロ舟です
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